大河ドラマ「真田丸」をより深く理解して楽しむためのブログ

NHK大河ドラマ「真田丸」の歴史背景について、調べて書いていくブログです。                                      (「真田丸」を楽しむのが目的ですのでネタバレはありません。)

真田昌幸の朱印状(真田昌幸が独立を決意したのはいつか?)

大河ドラマ「真田丸」面白いですね。

 
第6話で、周囲の巨大な戦国大名に翻弄される草刈正雄さん扮する真田昌幸が、ついに織田からも独立することを決意します。
 
織田信長本能寺の変で横死したのは6月2日、信濃にいる滝川一益の元に知らせが届いたのは6月9日とされています。
 
実は、昌幸は6月10日の時点で、新たに印分「道」の朱印を使用しており、これは織田家に従属する国衆としての立場を逸脱する行動です。
 
なぜなら一般に戦国大名は、従属する国衆に対して
 ①朱印状使用許可
 ②黒印状使用許可
 ③印判状使用不可(花押のみ可)
の三段階でランク付けしました。
 
武田時代や信長が生きている時には、昌幸は朱印を用いていなかったことから、6月10日の昌幸の朱印は無断使用ということになります。
 
時間的に、昌幸の朱印は本能寺の変を聞き直ちに刻ませたものでしょう。この時点で昌幸は織田政権から離叛する決心をしていたのではないでしょうか?
 *1
 
以上が「真田丸」の歴史背景となっている真田家のお話です。
 

*1:参考:「真田四代と繁信(丸島和洋 著)」平凡社新書 

真田家の領地の変遷

大河ドラマ「真田丸」面白いですね。

 

真田家の領地について調べてみました。

 

戦国時代初期の真田は元々、現在の真田郷(現在の長野県上田市真田町)を本拠とする小規模な勢力(国衆)でした。が、一時、領地を失います。

 

大河ドラマ真田丸」主人公・信繁の祖父・真田幸綱は、信濃国に侵攻してきた甲斐武田氏の家来になり、武田氏の後押しで失っていた真田の領地を回復し、真田本城(別名・松尾城)を築きます。この当時の真田氏の勢力範囲は小県の一部です。

 

その後、武田氏上野国吾妻郡(現在の群馬県吾妻郡)侵攻に伴い、永禄7年(1564年)頃、真田幸綱は吾妻郡の中心にある岩櫃城に入城し、居城としたものと思われます。

 

幸綱、および嫡男の真田信綱の死後、真田昌幸が真田家の家督をついで岩櫃城を受け継ぎました。昌幸は北条氏武田氏の対立の中で、叔父の矢沢頼綱に指揮を取らせて上野国沼田(現在の群馬県沼田市)攻略を進め、天正8年(1580年)8月に沼田城を攻略します。

 

これにより、真田氏は本拠地の信濃国小県(の一部)に加えて、上野国吾妻郡と沼田のある上野国利根郡を勢力範囲としました。大河ドラマ真田丸」が始まった時、真田氏は信濃国上野国を結ぶ上州街道を抑えていたのです。

 

以上が「真田丸」の歴史背景となっている真田家のお話です。

真田昌幸を支えた叔父・矢沢頼綱

大河ドラマ真田丸」面白いですね。

 

第5話で、織田方に岩櫃城・沼田城を明け渡す事になった真田昌幸が、綾田俊樹さん扮する矢沢頼綱に深々と頭を下げている様子が印象的でした。何故なのか調べてみました。

 

矢沢頼綱は昌幸の父・真田幸隆の弟で昌幸にとっては叔父にあたります。若い頃出家し京都鞍馬寺の僧となるが程なく郷里に戻って還俗しました。その後は兄の幸隆に従い、武田家中の信濃先方衆として活躍しました。矢沢家の養子に入り矢沢頼綱と名乗っています。

 

幸隆と、その嫡男だった信綱の死後は、真田家を継いだ甥の昌幸に従いました。武田勝頼の重臣として甲府に詰めることが多かった昌幸の代わりに、吾妻郡の経営や沼田領侵攻を指揮しています。天正8年(1580年)5月に沼田城攻略に成功し、その功績により沼田城代に任命されています。

 

武田氏滅亡後、織田に従属するため明け渡す事になった沼田城は、頼綱が先頭に立って苦労して獲得した城でした。それを取り上げる事になったために、昌幸は頼綱に深々と謝っていたのです。

 

城を明け渡すよう昌幸に頼まれた頼綱は、

 「あれが、上野で最も大事な城だと、信長が認めたということ。むしろ鼻が高いわ。」

 と言って、昌幸に従っています。

 

昌幸にとって、頼りになる良い叔父さんですね。

 

以上が大河ドラマ真田丸」の歴史背景となっている真田家のお話です。

 

真田昌幸と武藤喜兵衛は同一人物。

大河ドラマ真田丸」面白いですね。

 

ドラマ前半の主役は間違いなく主人公の父、草刈正雄さん扮する真田昌幸です。

 

昌幸は、真田幸隆の三男として、天文16年(1547年)に生まれました。「真田丸」前半は、天正10年(1582年)の話ですから、ドラマの中で昌幸は35歳と言うことになります。当時としては十分老齢でしょう。

 

第4話で、昌幸は徳川家康から

「武藤殿。」

と呼ばれています。これは何故でしょうか? 調べてみました。

 

昌幸は幼少のころ、真田家から人質として甲斐武田家へ送られました。人質時代は武田信玄の近習となり、武田家中を支える武将となるよう信玄の薫陶を受けて成長しました。
(第2話で武田家滅亡のさいに、信玄の亡霊が昌幸の前に現れたのはそのためでしょう。)

 

成人した頃に、信玄の肝いりで武田氏縁戚の武藤家の養子に入りました。武藤喜兵衛に名前を変えて武藤家の家督を継いでいます。

 

元亀3年(1572年)三方ヶ原の戦いで、上洛を目指す武田信玄に家康が蹴散らされた時に、昌幸は武藤喜兵衛として戦いに加わっていました。

真田丸」第4話で家康は、

「武藤と言う恐ろしい侍大将がいた。」

と、言っていますが、その当時、武藤喜兵衛は足軽大将くらいだったはずで、侍大将と言うのは家康のお世辞でしょうか?

 

その後、天正3年(1575年)長篠の戦い武田勝頼が織田・徳川連合軍に敗れた時に、長男・信綱と次兄・昌輝が討死しました。そのため、昌幸は真田氏に復して真田家の家督を継いで、真田昌幸となったのです。

 

以上が「真田丸」の歴史背景となっている真田家のお話です。

小山田信茂は処刑され、真田昌幸が許されたのは 何故か?

NHK大河ドラマ真田丸」面白いですね。

 

第2話で温水洋一さん扮する小山田信茂が、織田信長の嫡男・信忠から武田氏への不忠を咎められ処刑される場面が印象に残っています。一方、真田昌幸は織田への従属を選択して信長に拝謁した結果、許されました。

 

小山田信茂は処刑され、真田昌幸織田氏に従属を許されたのは何故でしょうか?

 

それは、二人の立場が違っていたからだと考えられます。小山田信茂は、甲斐武田氏の家臣で、武田家中最強と言われた騎馬軍団を率いる譜代家老衆でした。いわゆる重臣の立場です。それが一転、主君を裏切ったため織田方の逆鱗に触れたのではないでしょうか?

 

一方、真田昌幸信濃小県の国衆で、武田家中では外様(先方衆)です。国衆とは、ミニ版の戦国大名とも言える存在です。自分の領地の自治権を持ち、領土を安堵してくれる有力な戦国大名に従っていました。

 

戦国大名を親会社とすると、国衆は独立性の高い子会社社長にあたります。自分の領土を守るのが第一で、そのために主家を変えることも多々ありました。

 

しかし、真田昌幸は武田家中で有力な家臣として頭角を表し、外様でありながら同時に、ご譜代同様の扱いとなっていました。

 

昌幸が武田氏滅亡後、信長に従属するため黒葦毛の馬を送ったさい、信長から戻ってきた礼状には「左那田弾正」殿と書かれていました。当て字です。信長が真田昌幸なる人物を詳しく知らなかった可能性があります。もしかすると、これが幸いしたのではないでしょうか?

 

以上が「真田丸」の歴史背景となっている真田家のお話です。

 

 

甲斐武田家中における、真田氏の微妙な立ち位置。

NHK大河ドラマ真田丸」面白いですね。

 

第4話で草刈正雄さん扮する真田昌幸の台詞が、不思議だったので調べてみました。

「真田は(武田家臣としては)外様でしたゆえ」

 

真田氏は、信濃国小県(今の長野県上田市付近)にある真田郷を拠点とする国衆(=独立した小豪族)でした。

昌幸の父の真田幸綱の時代に、信濃に侵攻してきた甲斐の武田信玄に従属します。
これは、小さな豪族が有力な戦国大名の家臣となって自分の領地を安堵してもらうやり方です。

 

真田氏は甲斐時代からの譜代に比べて家臣となって日が浅く、「真田丸」第1話で武田家重臣たちから

「真田はまだ家臣となって日が浅そうございます。」

と陰口を叩かれています。


しかし真田氏は、武田家中において信濃先方衆*1の有力武将として活躍し、武田二十四将には、真田幸綱と嫡男・信綱が含まれ、次男・昌輝も描かれています。一つの家から親兄弟が武田二十四将に数え上げられた例は他にありません。


三男・昌幸は信玄の近習として仕え「我が両目のごとき」と言わしめるほど重用されています。昌幸は信玄の肝いりで、武田家親類衆の武藤家に養子に入り、武藤喜兵衛と名乗っていました。「真田丸」第4話で、家康から「武藤殿」と呼ばれたのは、このためです。

真田昌幸が真田性に戻った話は、別の記事に書く予定です。)

 

真田昌幸は武藤家の当主として武田氏縁戚の立場を持ち、先方衆(=外様の国衆)でありながら一方で譜代家臣として処遇されていました。小県と武田家中をつなぐ役目を持ち、地元の国衆から一頭地抜き出て小県を取りまとめる立場になって行く理由ではないかと考えられます。


以上が「真田丸」の歴史背景となっている真田家のお話です。

 

*1:「先方衆」の「先方」とはかっての敵方と言う意味で、武田家に置いて外様国衆を呼ぶ際に用いられています。